2012-01-01から1年間の記事一覧
こんなに月が綺麗な夜なのに、Mは来ない。縁側は銀の光に濡てゐる。僕はその縁側に腰を下して、もう半時程もぼんやりと月を眺めて居る。 何時もさうだ。決って彼の方から「今夜お前の家に行く」と云ひ出す。そのくせ、遅れたり素つ放したり。さうかと思へば…
東に背を向けて歩く帰り道。八月の末ともなると、日が落ちるのがはやい。あたりはもうとっぷりと暮れている。それでもこの蒸し暑さにはうんざりする。汗のせいで、長くなった前髪が額に貼りつくのがうっとうしい。 目の先、前方のマンションの上階の窓ガラス…
一瞬、彼女だと思つた。しかしそんな筈はなかつた。あれはもう、四十年も前の事だ。—— 気まぐれに彼女の家を訪ねた。此処に来るのは大学卒業以来、随分と久しぶりの事だつた。 彼女は私の下宿の大家の娘で、女学生だつた。 唇も合はせた事のない、淡い恋だつ…
織姫の涙おちそへてまさりけるか、天の川波なほ高し。牽牛、心乱れて水に入らんとするに、声あり。 渡し守「ちよつとー、なにやつてんすか。まだ朝ですよ。営業時間は夜七時からですつてば。勝手に渡られると困るんすよねー」 また、空より声す。 かささぎ「…
牽牛、その日なれば、天の川渡らむと川原に行きけり。川波、星の光をうつして、きらきらしきことかぎりなし。 牽牛、心はやれど、渡し守、かささぎ、見えず。牽牛、「あやし」と思へど、舟だになし。 歩きて渡ることかなはねば、泳ぎて渡らむとすれど、波う…