2020-06-01から1ヶ月間の記事一覧
いつも乗る朝の電車。目の前の座席では、早春の日射しの中で、また彼が居眠りしている。 私より少し年下だろうか、二十五、六歳のサラリーマン風。紺色のスーツを着た、名前も知らない人。でも降りる駅だけは知っている。たまにはちゃんと起きて降りるから。…
おかあさん、あのときも雨が降っていましたね。あなたが私をみごもったのを知った日です。 おかあさん、あの日あなたは涙を流しましたね。それは嬉し涙で、自分が石女でないという安堵の涙だったのを、私は知っていました。 おかあさん、ほんとうはあなたが…
逢魔が刻の、薄闇がネットリと沈む時分になると、夫はいつもどこかしらへ出かけるのでございます。 「それでは行ってくる」 そう言って、行き先も告げずに出て行くのでございます。 「お気をつけあそばして」 わたくしはニッコリとほほえんで見送るのでござ…
ブッダ誕生前夜。−− ブラインドを指で広げ、その隙間から下界を見やる男の、鋭い眼光があった。眼光は遥かむこうの獲物をとらえていた。男は紫煙をくゆらしながら、その眼をふいに細めた。そしてにやりと笑った。−− * * * ヒマラヤは雪に閉ざされていた。…
昔むかしのある夕暮れ時、山の中の細道を一人の老人が杖をつき、よぼよぼと歩いていた。深いシワが刻まれた顔は疲れ果てている。やせ細ったからだに精気はない。 道の傍らに粗末な小屋があった。老人はよろよろと駆け寄り、扉を叩いて助けを求めた。 「もし…