しぐなすの創作物置小屋

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帝釈天の事件簿・月のウサギの話

昔むかしのある夕暮れ時、山の中の細道を一人の老人が杖をつき、よぼよぼと歩いていた。深いシワが刻まれた顔は疲れ果てている。やせ細ったからだに精気はない。
道の傍らに粗末な小屋があった。老人はよろよろと駆け寄り、扉を叩いて助けを求めた。
「もし、相済みませぬが、水を一杯いただけぬか……」
あえぎながらそう呼びかけると、中からサルとキツネとウサギが出てきた。
「ご老人、どうされました」
サルが驚いて問いかけ、キツネも、
「とにかく、ささ、中へお入りください」
と言った。
ウサギも心配そうに顔を覗き込んだ。
「お気の毒に、とてもお疲れのようですね」
三匹に案内されて、老人は中に入った。
「旅の者ですが、道に迷いましてな……」
キツネが差し出した水を一気に飲み干すと、老人は人心地ついたようだった。
「ああ、助かった……ご親切にありがとうございます」
サルが、
「もう日も暮れました。今夜はどうぞお泊まりください。……あ、もしや、お腹もおすきなのでは?」
と言うと、老人はうなずいた。
「お察しのとおり、朝から何も食べておりませぬ」
「ではわれわれがごちそういたしましょう」
キツネの言葉に、老人の顔が明るくなったが、少し不思議そうに首をかしげた。
「なぜですかな? こんなしがない老人に、あなたがたはなぜそんなにご親切にしてくださるのですか?」
するとサルが神妙な顔で言った。
「われわれは畜生です。それは、仏教の教えによると、前世で悪いことをした証拠です。悪いことをしたから、畜生に生まれ変わってしまった。ですから、今度はとことん人助けをして、畜生道を抜け出そうと誓い合ったのです」
続いて、キツネが明るく言った。
「この世でいいことをすれば、来世は極楽に生まれ変われるのですから」
そしてウサギがもじもじしながら言った。
「私も及ばずながら、いいことをしようと心がけています」
老人は感心した様子で笑顔をみせた。
「それはご立派じゃ。それでは僭越ながら、この老人がみなさんのお手助けをしましょう。ぜひとも私を満腹にしてくだされ。そして功徳を積んでくだされ」
「合点承知。ではしばらくお待ちを!」
サル・キツネ・ウサギは小屋を飛び出した。
  * * *
老人がしばらく待っていると、サルとキツネが帰ってきた。
サルがたくさんのバナナを差し出した。
「さあ、これをお召し上がりください」
老人は微笑みながら尋ねた。
「これはどこで手に入れられたのですかな?」
「里に行ってきました。ちょうど通りがかった家の窓辺にあったもんで、失敬してまいりました」
老人の目が一瞬鋭く光った。
「それは……悪いことなのではありませんかな?」
「いいえ、困っている人に差し上げるためなら、悪いことではありません」
サルは自信たっぷりに言った。
次にキツネがたくさんのまんじゅうを差し出した。
「さあ、これをお召し上がりください」
老人は再び尋ねた。
「これはどこで手に入れられたのですかな?」
「墓場に行ってきました。ちょうど通りがかった墓の前にあったもんで、失敬してまいりました」
老人の目が一瞬鋭く光った。
「それはお供え物でしょう。……悪いことなのではありませんかな?」
「いいえ、困っている人に差し上げるためなので、悪いことにはあたりません」
キツネは自信たっぷりに言った。
そうこうしているうちに、ウサギが帰ってきた。何も持っていなかった。
「ただいま……。私は何もみつけられませんでした……」
サルとキツネは目を釣り上げてまくしたてた。
「ウサギ、お前は何をやらせてもダメなやつだな。要領が悪くて、おまけに臆病とくる。いいことをするには、知恵と勇気が必要なんだ」
「さあ、もう一度、今度はオオカミや猟師のいるあっちの山に行ってこい。俺たちを見習って、知恵と勇気を身につけてくるがいいさ」
ウサギはしょんぼりとうなずいて出て行った。
サルとキツネは老人に食べ物を勧めた。
「さあご老人、召し上がれ」
「では遠慮なく」
老人は目の前のバナナとまんじゅうを両手に持って、おいしそうにほおばった。
  * * *
小屋を出たウサギはとぼとぼ歩きながら思った。
(サルさんとキツネさんはああ言うけど、オオカミも猟師も恐ろしい。しかももう夜なのに、私はとてもあんなところには行けない)
そして、
(オオカミに食われても、猟師に捕まえられても、おじいさんの役には立たない。それは犬死にと同じこと……)
そう考えてから、ウサギはハッとした。
「そうだ、いいことを思いついた!」
ウサギは急に元気になって小屋に帰った。
「ただいま」
「意外にはやかったじゃないか。なにか持ってきたか」
サルが尋ねると、ウサギはこたえた。
「うん。でも焼かなくちゃ食べられないんだ。君たち、外で焚き火をたいてくれよ。私は獲物を持ってくる」
そう言うと、ウサギは姿を消した。
サルとキツネはさっそく外に出て焚き火の準備を始めた。空には、いつのまにかきれいな満月が昇っていた。バナナとまんじゅうを食べ終えた老人も外に出た。小屋にたどり着いたときとは、見違えるほど元気な様子である。
サルがキツネに言った。
「あいつ、なにを持ってきたんだろう」
キツネはにやにやしながらこたえた。
「まあ、あいつも心を入れ替えたんだろうよ。何が出てくるか楽しみだな」
暗い山中に、ひときわ明るく焚き火が燃え上がると、どこからかウサギが現れた。そして言った。
「おじいさん、ほんとうは私は何もみつけられなかったんです……」
老人は意外な顔をした。サルとキツネが何か言おうとするよりはやく、ウサギは叫んだ。
「ですから、どうか私を食べてください!」
言い終わらぬうちに、ウサギは火に飛び込んだ。
「!」
サルとキツネは固まったまま動けない。
そのときである。老人が胸の前で手を合わせたかと思うと、一瞬のうちに美丈夫の男に姿を変えた。涼しい目に高い鼻梁。頭上に宝髻(ほうけい)を結び、甲冑をつけた凛々しい姿である。
サルとキツネはそれを見るやいなや、驚きの声をあげた。
「ああっ、あなたはミスター帝釈天!」
「いかにも」
涼しい目がキラリと光った。
帝釈天は火に飛び込むと、息絶えたウサギをそっと抱き上げた。不思議なことに、ウサギは焼けずにきれいな姿のままだった。
「……無茶をしたな」
帝釈天はウサギをみつめ、困ったような微笑を浮かべて言った。
「さあ、私と一緒に極楽へ行こう」
帝釈天は腕の中のウサギに呼びかけたが、ふと気づいたように声をあげた。
「おっと」
そして空を見上げながら続けた。
「君にごほうびをあげなくてはな」
帝釈天はおもむろに、中空に浮かんだ満月を指差し、気合を入れた。
「エイッ」
すると、月の面に、ありありとウサギの姿が刻印されたのだった。
「これですべての人々が、月を見るたびに君のことを思い出すだろう」
帝釈天はサルとキツネに目を向けた。
「君たちの信仰心を試すために、老人に化けたのだ。バナナもまんじゅうもうまかったが、君たちはこれからも修行に励んでくれたまえ」
サルとキツネは呆然として、うわ言のようにつぶやいた。
「え、われわれは」
「極楽には行けないんですか」
「いかにも。理由は……胸に手をあてて、よく考えてみてくれたまえ」
そう言って、帝釈天は二匹に軽くウインクを投げた。その途端、しゃららんと流れ星が飛んだ。
「それではこれにて失礼」
帝釈天はウサギとともに颯爽と天へ昇っていった。サルとキツネは、いつまでもその姿を見送っていた。
月にはウサギが住むという言い伝えが誕生したのは、このときだったのである。

〜『今昔物語』より〜