しぐなすの創作物置小屋

小説・現代誤訳・詩歌・漫画などなど

帝釈天の事件簿・白いお別れ

ブッダ誕生前夜。−−
ブラインドを指で広げ、その隙間から下界を見やる男の、鋭い眼光があった。眼光は遥かむこうの獲物をとらえていた。男は紫煙をくゆらしながら、その眼をふいに細めた。そしてにやりと笑った。−−
    *    *    *
ヒマラヤは雪に閉ざされていた。一人の若者の漆黒の髪以外はすべて白だった。その若者は−−「ヒマラヤボーイ」と、人は半ば呆れ、半ば畏れをもってそう呼んだ−−ヒマラヤにただ一人で棲んでいた。仏の道を志し、修行に明け暮れていた。
彼の日課は、ひときわ大きな木の上の、木の股に座しての瞑想だった。
ある日、いつものように樹上で瞑想をしていた、そのとき。
「しょぎょうむじょう……ぜしょうめっぽう……」
風に混じってどこからともなく、幽かな声が彼の耳にとどいた。と、それはすぐやんで、もとの風音のみがこの世に残った。ヒマラヤボーイはその言葉を聞き逃さなかった。
諸行無常……是生滅法……!? あれは御仏のありがたいお言葉のはず……。いったいどこから聞こえたのか」
眼を開けると、一瞬ひるんだ。前方に醜く恐ろしい鬼の顔があったのだ。鬼はすぐそばの太い枝にうずくまって、こちらを凝視している。鬼の髪は炎のように逆巻き、剣のような牙は雪を反射してきらきらと光った。
ヒマラヤボーイはおずおずと問いかけた。
「今のは……あなたの声ですか?」
鬼が御仏の言葉を口にするはずはない。だが問わずにはいられなかった。
鬼はけだるげにつぶやいた。
「おれに話しかけるんじゃねえ。おれは長い間何も食べてねえんだ。あまりのひもじさに、何か口走ったんだろうよ。どうかしちまったんだ」
「あの一節は御仏のありがたいお言葉の前半で、続きがあるはず……。『諸行無常是生滅法』、その後は!? お願いです、残りの半分を教えてください」
「話しかけるなと言ったはずだ。ひもじくてこれ以上ものを言う元気もねえんだ」
「じゃあ、何か食べたら教えてくれますか」
「ああ、言うかもしれねえな」
「でもあなたが何を食べるのか、ぼくには見当もつかない……」
「聞かねえ方が身のためだ。どうせお前にはみつけられねえ代物だ」
「言ってみてください、ものは試しです」
ヒマラヤボーイの熱心さに、鬼はしばらく黙ってから、にやにやしながらこたえた。
「人間の肉だよ、とびきり新鮮なやつだ。もちろんドリンクも人間の血だ。冷たいのじゃいけねえ。あたたかいのをな」
今度はヒマラヤボーイが黙る番だった。
鬼はヒマラヤボーイに顔を近づけ、臭い息を吐きかけた。
「なんだ、怖じ気づいたのか」
沈黙の後、ヒマラヤボーイはようやく口を開いた。
「……わかりました」
「なんだと?」
鬼が鼻で笑いながらそう言うと、ヒマラヤボーイは深く息を吸い込んで力強く言った。
「ぼくのからだを食べてください」
鬼は面白そうに眼を見開いた。ヒマラヤボーイは言葉を続けた。
「あの一節の残り半分を教えてくれたら、ぼくのからだをあなたに捧げます。どうせいつかは死ぬ身だ。あの続きを聞くことができれば本望です」
鬼は剛毛の密生した手の甲でヒマラヤボーイの頬を軽く撫でた。
「冗談言っちゃいけねえぜ、坊や。お前の言うことなんか誰が信じるよ。聞き逃げって手もあるんだからよ」
ヒマラヤボーイは鬼を見据えた。
「ぼくは仏道を志している身です。わざわざ地獄に堕ちるようなことをすると思いますか。聞き逃げなんてとんでもない。……嘘は言いません。梵天帝釈天、四天王、その他、あらゆる仏様に証人になっていただきます」
鬼はますます醜悪に顔をゆがめてにやにや笑った。
「それほどまで言うんなら、あの言葉の続きを教えてやるさ」
ヒマラヤボーイの顔が明るくなった。手を合わせ、ひざまずき、深く頭をたれた。
「さあ、教えてください、あの続きを」
「よく聞け。一度しか言わねえぞ。残り半分は、『しょうめつめつい、じゃくめついらく』だ」
「生滅々已、寂滅為楽……ああ、ありがたい」
ヒマラヤボーイは幾度もその言葉を口にして頭に刻み込んだ。そして樹上に立ち上がった。
「これで心置きなくこの世とさよならできる。さあ、ぼくを食べてください!」
鬼に向かってそう言うと、ヒマラヤボーイは眼を瞑り、樹上から虚空に身を投げた。弧を描いて、彼は墜落していった。巨大なものに吸い込まれるようだった。どちらが上か下か、わからなくなった。からだが途方もなく伸びる心地がした。
風が、止んだ。−−
ヒマラヤボーイはふいに自分のからだが浮き上がるのを感じた。熱く逞しいものに抱き留められていた。眼を瞠くと、間近に端麗な男の顔があった。涼しい眼に高い鼻梁。頭上に宝髻(ほうけい)を結び、甲冑を身につけている。
「あっ、あなたはミスター帝釈天!?」
ヒマラヤボーイの声が震えた。キラリ、と男の眼が光った。
「いかにも」
帝釈天はふわりと着地して、ヒマラヤボーイを地面に下ろした。
「君は合格だよ」と、帝釈天は微笑んだ。
ヒマラヤボーイは首をかしげた。
「合格……?」
「鬼に身を捧げても御仏の言葉を聞きたいとは、見上げたものだ。ためらいもせずに私の前に身を投げたときは、少々慌てたがね」
帝釈天はそう言って、今度は滑らかな手の甲で、軽くヒマラヤボーイの頬を撫でた。
「では、あの鬼の正体はあなただったのですか……」
ヒマラヤボーイは安堵した様子で、がっくりと膝をついた。
「天上の私の事務所から、修行する君をずっと見ていた。君はいつも真剣な様子だった。だが、それは本物かどうか。−−魚の子は無数に生まれるが、成魚になるものは稀だ。マンゴーの花はたくさん咲くが、実を結ぶものは滅多にない。人の心も移ろいやすいからね」
「つまり、鬼に姿を変えて、ぼくの仏道を志す気持ちを試した、ということですね」
「そういうことだ。気を悪くしないでくれたまえ。私も辛いのさ」
帝釈天は肩をすくめた。
「もちろんですとも。あなたに会えてよかった」
ヒマラヤボーイは瞳を輝かせて言った。二人は固い握手をした。
「君がブッダになったら私を極楽浄土に上げてくれよ。今の事務所はむさ苦しいんでね」
別れ際にそう言ってから、帝釈天は悪戯っぽくウインクした。しゃららんと星が飛んだ。
一瞬の後には、帝釈天は空へ昇っていった。ヒマラヤは元の静寂を取り戻した。ヒマラヤボーイの漆黒の髪と紅潮した頬以外は、すべて白だった。

ヒマラヤボーイがブッダに生まれ変わるまで、あと少し。−−

〜『三宝絵』より〜