しぐなすの創作物置小屋

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掌編小説「息子」

 十時過ぎてから、おふくろが急に医者に行くと言い出した。明日休みだから今日行かないとだめなんだと言う。そんなはずはない。明日は火曜日で祝日でもない。だが逆らうと面倒なのでやめた。
 どんよりと曇った梅雨空の下、俺は得意先に行くついでに、小型トラックにおふくろを乗せて、かかりつけの医院に連れて行った。
 手押し車を押しながら歩くおふくろの足元はおぼつかない。しかし俺が手を貸そうとすると、おふくろはいつものように拒絶した。
「一人で歩けるよ、構わないでちょうだい」
 そのくせ、医院の入り口の前のスロープに手押し車をうまく移動させることができない。
「ちょっと待てよ」
 俺はいつものように、手押し車を持ち上げてスロープに移動させる。おふくろは当然のような顔をして手押し車を押し始める。そしていつものようにこう言った。
「もういいからさ、帰んなよ、あんたみたいなのと一緒だとみっともないからね」
 俺を追っ払うと、おふくろは医院の外扉の自動ドアを開けて入っていった。
 こんなだから女房は愛想を尽かしちまったんだ。五年前に別れてから、息子も娘も寄りつかない。何もかも母ちゃんのせいだぞ。
 このご時世で、自営業はみんなそうだが、うちみたいな零細は特に火の車だ。そのうえ年寄りの世話だ。おふくろはそんなことをわかっているのかいないのか、俺には礼の一つも言わない。何かといえば、これまで女手一つで育ててやったと、恩に着せるばかりだ。
 俺は医院の脇に止めてあったトラックに乗って、おふくろの様子を見ていた。医院の中に入ったはいいが、まだ中扉の前でアルコール消毒をしている。母ちゃんも身体がきかなくなったものだ。その分、口だけはますます達者になる。
 受付の女の人が気づいて、中扉を開けてくれたらしい。「こんにちは」という大きな声がした。
「手間かけさせやがって」
 思わず口に出る。と同時に、肩の力が抜けた。そして、ラジオから陽気な音楽が流れていることに、初めて気づいた。
 空が少し明るくなってきた。天気はどうにか持ちそうだ。梅雨明けも近い。医院の前には大ぶりの紫陽花がいくつも咲いている。
 俺は一つ大きなため息をついてから、トラックを発進させた。