しぐなすの創作物置小屋

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義叡が不思議な僧に出会った話

昔、義叡(ぎえい)という修行者がいた。熊野から大峰山に入ったが、御嶽(みだけ)へ出る間に道を間違え、十日余りの間、険しい谷や峰を迷い歩くはめになった。疲れ果ててますます危険を感じたので、必死の思いで仏に祈りを捧げた。

その後、やっとのことで平地にたどり着いた。そこには松林があり、その中に庵が一つあった。近くに寄って見てみると、とても立派な庵だった。新しく建てたらしい。さまざまな道具が美しくしつらえられており、それはみんな玉のように輝いていた。庭の砂は雪とみまごうほどだ。植木には花が咲き、木の実がなっていて、前栽にもさまざまの花が咲き、その色はなんともいえず美しかった。

「こんなところに庵が! ああ、助かった」

義叡は安心してへたりこんだ。そして庵の中をのぞいた。そこにはきれいな若い僧が一人いた。二十歳ぐらいに見える。衣、袈裟をきちんと着ており、こころなしかオーラを発しているように見える。彼は美しい声で法華経を読み上げていた。

「ありがたい…疲れも吹き飛ぶようだ…」

義叡がうっとりと聞き惚れていると、僧は一の巻を読み終えた。そしてお経を経机に置くと、そのお経は手も触れないのにひとりでに巻き戻されて元の形に戻ってしまった。義叡は目を疑った。

(じ、自動!?…)

一の巻だけではなく、八の巻までが同じように巻き戻されて元に戻った。

(これってもしかして、やばいかも!?)

義叡が恐ろしさに固まっていると、僧が立ち上がって外に出てきた。そして義叡をみつけると驚いて声を上げた。

「誰?」

「あ、あやしい者ではございません、義叡と申します。修行の者です」

義叡が慌てて名乗ると、僧はいぶかしそうに言った。

「昔から人など来たことがないのに…。鳥の声さえも聞こえないこんな山奥に、いったいどうやって来られたのですか?」

「じ、実は、道に迷ってしまいまして…」

義叡はしかたなく、これまでのいきさつを話した。すると僧は気の毒そうに、庵の中へ案内した。

「それは大変でしたね。さあ、どうぞこちらへ」

義叡はおそるおそる僧の後に続いた。

中に入って行くと、きれいな童子がいて、さまざまな果物や飲み物を用意していた。

「これを召し上がってください」

「で、ですが」

「ご遠慮なさらずに、さあ」

断ることも恐ろしかったので、僧にすすめられるまま、義叡はそれを食べた。なんともいえないその味わいは人間界の食べ物とは思えない。義叡はすっかり気持ちよくなってしまい、恐怖心はどこかへ行ってしまった。そこで義叡は思い切って僧に問いかけた。

「ここに住んで何年になるのですか? それに、このようになんでもご自分の思い通りにできるとは、不思議でたまりません」

「ここに住んで八十年余りになります」

(長っ! ということは…百歳超え!?)

僧の答えに義叡は驚いたが、聖の放つオーラに圧倒されて黙っていた。僧は続けた。

「私は元は比叡山東塔の三昧座主の弟子だったのです。それが、ちょっとしたことで勘当されて、比叡山を出ました。愚かなことですが、あちらこちらと迷い歩いて、住むところもありませんでした。年をとってから後、この山に住みついて、今はここで死ぬのを待っているのです」

義叡はいよいよ不思議に思い、さらに尋ねた。

「人が来ないとおっしゃいますが、すばらしい童子が三人もおられる。不思議なことです」

法華経には『天の諸童子、以て給仕を為す』との一節があります。御仏の御加護です。不思議なことなどありません」

「ここで八十年暮らしておられるなら、かなりの高齢ということになりましょうが、ずいぶんお若く見えます。これも解せません」

法華経に『もし人、病ありてこの経を聞くことを得ば、病はただちに消滅して不老不死ならん』とあります。全然不思議ではありません」

このようなやりとりの後、僧は義叡をうながした。

「さあ、あなたはもうお帰りになった方がいいですよ」

義叡には意外な言葉だった。食べ物の魅力もさることながら、僧の話ももっと聞きたいと思った。

「もうくたくたで、すぐには動けそうもありません。何日も歩いたものですから。それに、日も暮れてしまって外はもう暗い。…もしかして、私が邪魔ですか?」

義叡が遠慮がちにそう言うと、僧は薄く笑った。

「邪魔というわけではありません。私は人間界を離れて長年過ごしてきました。ですから、あなたははやく人間界へ戻った方がいいとおすすめしているだけです。結構ですよ、お泊まりください。でも、からだを動かさないで、音を立てずに隠れていてください」

「は、はあ…それでは」

義叡は僧の真意をはかりかねたが、僧の言うとおりに屏風の陰に隠れてじっとしていた。

だんだん夜が更けてくると、にわかに風が吹いてきて、異様な雰囲気になった。そして、さまざまな形をした鬼神、猛獣が数知れずどこからともなく集まってきた。馬の顔をしたものもいれば、牛に似ている者もある。また、鳥の頭をした者もあり、鹿の形をした者もある。異様な鳴き声を上げる者や、鼻息の荒い者もいた。

それぞれが果物や食べ物を持っていた。そして庭に高い机を立てて、そこに食べ物を捧げ置いては、手を合わせてひれ伏した。義叡はその様子を屏風のすき間からこっそり覗いて震え上がった。

異形の者の一人が言った。

「ガルルル…変だぞ。いつもと違う。人間の匂いがするぞ」

またある者が言った。

「クェックェッ…人間がここに来ているのではないか」

異形の者たちがざわついた。義叡は思わず目をつぶった。

僧はそしらぬ顔で、義叡の命が助かるように願を起こして法華経を読み始めた。すると、ざわついていた者たちも何事もなかったように静まり返った。

夜明けになり、異形の者たちは僧を敬い拝んで去って行った。義叡は屏風の陰から出てきて、おそるおそる僧に尋ねた。

「あのさまざまな形をしている者たちはいったい何者なのですか。どこから来たのですか」

法華経には『もし人、しずけき所にあらば、われは天・龍王・夜叉・鬼神等を遣わして、ために聴法の衆となさん』とあります。御仏がお遣わしになられたのです」

まなざしを天へ向けて僧が言った。義叡は後ろ髪を引かれながらも帰ることにした。

「お名残惜しいですが、恐ろしさには勝てません。私はそろそろ退散した方がよろしいようですね。…しかし道がわかりません。どう行けばいいのやら」

「では道案内をつけてお送りしましょう」

僧はそう言って、水瓶を前に置いた。するとその水瓶が飛び上がってどんどん先へ行く。

挨拶もそこそこに、義叡は水瓶について庵をあとにした。四時間ほどで山の頂上に着いた。見下ろすと、麓に人里があった。

「おお、あそこに里が!」

水瓶はその声を聞くと、空にのぼって飛んで行った。僧の元へ帰ったのだろう。義叡は水瓶に深々と礼をした。

その後、里にたどり着いた義叡は、この話を語り伝えたということだ。