昔むかし、外国のお話です。
円周率の計算に取り憑かれた数学者がいました。彼は毎日、朝から晩まで、円周率の計算をしていました。
ろくに食事もしなかったものですから、元々病弱だった彼は、まだ四十にもならないのに病気になってしまいました。それでもなお、彼は無理に起き上がって計算を続けていました。頬はこけ、目の下は黒ずんでいましたが、瞳だけはますます深く澄んでゆきました。
ある夜、窓の外から彼を眺める者がおりました。それは異形の女でした。漆黒の翼をもち、瞳は炎よりも赫く輝いていました。
女が窓から入っていくと、数学者は驚いて女を凝視しました。その瞳の、何と青かったことでしょう。女は胸を氷に貫かれたような衝撃をうけました。それでも女は厳かに口を開きました。
「あなたは罪を犯しました」
数学者はひとつ咳をしました。女はうわずった声で続けました。
「円周率は無限です。無限とは神にほかなりません。それをいつまでも追い求めるのは神になろうとすること。それは罪です。今すぐ悔い改めなさい。さもなければ、私はあなたを処刑しなければなりません」
数学者は一瞬たじろいだ後、女をじっと見据えました。
「円周率のない余生などいらない」
「円周率はあなたの命よりももっと長く遠く続くのですよ……永遠に」
「それでも私は円周率を計算せずにはいられない」
女は数学者の澄んだ青い瞳から目をそらすことはできませんでした。
「せめてもの情けです」
と女は言いました。
「あなたに『永遠』をさしあげましょう」
女は数学者の秀でた額に触れました。すると数学者はそのまま水晶になってしまいました。彼の青い瞳はますます青く透きとおりました。
女は涙を流しました。
それをごらんになった神は憐れんで、女を黒曜石に変えました。瞳だけはルビーとなって、ますます赫く輝きました。
女は数学者の額に指を触れたまま石になったので、二つの石はいつまでも離すことができませんでした。
この二つの石は、ある博物館の奥深くにしまわれているそうです。