しぐなすの創作物置小屋

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「<算盤が恋を語る話>その後」

※『算盤が恋を語る話』(江戸川乱歩)の続編を書いてみました。

 

 田代さまへ
 大変ご無沙汰しております。私達の婚礼以来、お目にかかっておりませんが、その後、おかわりありませんでしょうか。
 私と木山は子供もうまれ、しあわせに暮らしております。しあわせに……いえ、ほんとうはあなたのことを思い出さない日はありません。田代さん、どうしてあんな回りくどいことをなさったのですか、暗号での通信などということを……。
 実は私は知っていました。自分で気づいたのではありません。木山が気づき、私に話したのです。
 いつからか、あなたは朝早く出勤なさるようになりましたね。そしてその日から、あなたは私の机の上に算盤をお出しになったのでした。木山はもともと早朝に出勤していました。それで、あなたが急に朝早く出勤なさって、その上、私の机の上に算盤をお出しになるという行為を不審に思ったのです。実は、私たちはそれより少し前からお付き合いをしていたものですから、余計に。
 私は、初めは自分がしまい忘れたと思っていましたが、いつもいつも算盤が机の上に出してあるので、不思議に思い始めました。あるとき、木山が私にささやいたのです。
「これは田代さんが朝一番に出しているのさ」
「どうしてでしょう?」
「これは暗号なんだ。ほら、俺たちが給料を仕分けするとき、五十音で分けるだろう、あれ式の暗号……。あの人も意気地がないな」
 私たち会計部だけで通じる暗号……。五十音を二桁の数字で表す、あの暗号です。算盤の数字は「124532222272」。これを当てはめてみますと、「12」はア行(1)のイ段(2)で「い」、「45」はタ行(4)のオ段(5)で「と」。全部並べると「いとしききみ」と読めました。
 ただの偶然ではないかと思いましたが、毎日そんなことがあると、やはりこれは暗号なのかと思うようになりました。
 いつかあなたに尋ねましたね、「そろばんをお出しになるの、あなたでしょ」と。あれは木山にそそのかされてのことでしたの。木山は面白がって、「かまをかけてみろ」と言うものですから。あなたがあまり素直にお認めになるので、私は笑ってごまかしましたけれど、ほんとうはとても戸惑っておりました。
 そしてあの日。あなたが「今日帰りに」と算盤で暗号通信をなさった日。前日は「樋の山」とありましたので、今日帰りに樋の山遊園地で逢おうということだと、木山は解読したのです。樋の山遊園地には、会社のお花見でよく行きましたね。
「樋の山遊園地だとさ。ひとつこの際、田代さんをからかってやろうじゃないか」
 そう木山は言いました。
「『ゆきます』とでも返事をしてやるんだ。そして田代さんが来るのを樋の山遊園地で確かめるのさ。やっこさん、どんな顔して現れるか、見ものだぜ」
 今から思えば、このときに木山の本性を悟っていれば、こんなお手紙を書くことはなかったと、ほんとうに情けなく悲しい気持ちでいっぱいです。
 私は算盤に「83227133」と数字を置いて席を立とうとしましたが、思い直して、帳簿の数字を算盤と同じ数字に改めました。こうすれば、この数字が「ゆきます」と読めることは決して暗号などではなく、偶然だと言い抜けできますし、誰も傷つきません。そうして、私は木山と樋の山遊園地に行ったのです。
 木立に潜んで待っていると、あなたがおいでになりました。緊張の面持ちですが、何か自信に溢れたご様子で、胸を張っていらっしゃいました。
 待てど暮らせど私がこないので、あなたはだんだんうつむきがちになり、肩をがっくりと落とされました。私はとても罪深いことをしている……そう思うと、いても立ってもいられない気持ちでした。
 木山は面白そうに眺めておりましたが、やがて厭きたのか、私に言いました。
「あきれるね、もう三十分も待ってるよ。そろそろ行こうぜ。うまいもんでも食いに行こう」
 そして私は木山に連れられて遊園地を去ったのでした。
 田代さん、ほんとうにごめんなさい。木山にそそのかされたとはいえ、心から尊敬していたあなたをからかったりして。尊敬していた……いえ、ほんとうは田代さん、私は密かに憧れていたのですよ、寡黙で生真面目なあなた様に。
 その後、田代さんはご昇進なさったと聞き及んでおります。木山は結婚後に退社してから、職を転々としています。毎日賭け事ばかりで、明日の米にも事欠く始末……。
 田代さん、ぜひもう一度お逢いしとうございます。
 お返事を心よりお待ち申しております。
 かしこ
    木山小夜子

* * *

 読者諸君、この手紙に書いてあることはほんとうだろうか? 「ゆきます」の一件はほんとうに木山氏が企んだことだったのだろうか。小夜子女史は田代氏に会って何を言うつもりだろうか。
 この手紙ははたして田代氏に届いたのであろうか。そして、なぜ私はこの手紙を読者諸君の前に晒すことができたのであろうか。
 すべて読者諸君のご想像におまかせする次第である。
 え? 私は誰かって? フフフ。それもまた読者諸君のご想像におまかせしよう。

 

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